さらばハイセイコー

     ふりむくと
     一人の少年工が立っている
     彼はハイセイコーが勝つたび
     うれしくて
     カレーライスを三杯も食べた

     ふりむくと
     一人の失業者が立っている
     彼はハイセイコーの馬券の配当で
     病気の母に
     手鏡を買ってやった

     ふりむくと
     一人の車椅子の少女がいる
     彼女はテレビのハイセイコーを見て
     走ることの美しさを知った

     ふりむくと
     一人の酒場の女が立っている
     彼女は五月二十七日のダービーの夜に
     男に捨てられた

     ふりむくと
     一人の親不孝な運転手が立っている
     彼はハイセイコーの配当で
     おふくろをハワイへ
     連れて行ってやると言いながら
     とうとう約束を果たすことができなかった

     ふりむくと
     一人の人妻が立っている
     彼女は夫に隠れて
     ハイセイコーの馬券を買ったことが
     たった一度の不貞だった

     ふりむくと
     1人ピアニストが立っている
     彼はハイセイコーの生まれた三月六日に
     自動車事故にあって
     失明した

     ふりむくと
     一人の出前持ちが立っている
     彼は生まれて初めてもらった月給で
     ハイセイコーの写真を撮るために
     カメラを買った

     ふりむくと
     大都会の師走の風の中に
     まだ一度も新聞に名前の出たことのない
     百万人のファンが立っている
     人生の大レースに
     自分の出番を待っている彼らの一番うしろから
     せめて手を振って
     別れのあいさつを送ってやろう
     ハイセイコーよ
     お前のいなくなった広い師走の競馬場に
     希望だけが取り残されて
     風に吹かれているのだ

     ふりむくと
     一人の馬手が立っている
     彼は馬小屋のワラを片づけながら
     昔 世話したハイセイコーのことを
     思い出している

     ふりむくと
     一人の非行少年が立っている
     彼は少年院の中で
     ハイセイコーが強かった日のことを
     みんなに話してやっている

     ふりむくと
     一人の四回戦ボーイが立っている
     彼は一番強い馬は
     ハイセイコーだと信じ
     サンドバックにその写真を貼って
     たたきつづけた

     ふりむくと
     一人のミス・トルコが立っている
     彼女はハイセイコーの馬券の配当金で
     新しいハンドバックを買って
     ハイセイコーとネームを入れた

     ふりむくと
     一人の老人が立っている
     彼はハイセイコーの馬券を買ってはずれ
     やけ酒を飲んで
     終電車の中で眠ってしまった

     ふりむくと
     一人の受験生が立っている
     彼はハイセイコーから
     挫折のない人生はないと
     教えられた

     ふりむくと
     一人の騎手が立っている
     かつてハイセイコーとともにレースに出走し
     敗れて日曜日の夜を
     家族とも口をきかずに過ごした

     ふりむくと
     一人の新聞売り子が立っている
     彼のひき出しには
     ハイセイコーのはずれ馬券が
     今も入っている

     もう誰も振り向く者はないだろう
     うしろには暗い馬小屋があるだけで
     そこにはハイセイコーは
     もういないのだから

     ふりむくな
     ふりむくな
     うしろには夢がない
     ハイセイコーがいなくなっても
     すべてのレースが終わるわけじゃない
     人生という名の競馬場には
     次のレースをまちかまえている百万頭の
     名もないハイセイコーの群れが
     朝焼けの中で
     追い切りをしている地響きが聞こえてくる

     思い切ることにしよう
     ハイセイコーは ただの数枚の馬券にすぎなかった
     ハイセイコーは ただひとレースの思い出にすぎなかった
     ハイセイコーは ただ三年間の連続ドラマにすぎなかった
     ハイセイコーは むなしかったある日々の 代償にすぎなかったのだと

     だが忘れようとしても
     目を閉じると あの日のレースが見えてくる
     耳をふさぐと あの日の喝采の音が 聞こえてくるのだ